備忘録

久しぶりのブログですが今回は最近思うことを備忘録として。

 

いつもみたいになんか語りたいとかじゃなくて何個か独立したことを書いていこうと思いますん。

 

 

 

 4年生になってもう数ヵ月がたち、研究室で新たな人との出会いがあったり、各部活に春先は顔を出したり等々個人的にいろいろな界隈の人と話すことが多くなって思うんだけどやっぱり「阿呆な人」と話すのってめちゃくちゃ体力使う。

 

さしあたってこの記事における「阿呆」というのは、いわゆる学校の勉強ができないという意味ではなく、(個人的にはそれはバカと分類したい)理解力や常識や知識がなかったり、論理の流れをつかむ力ない状態のことを指しているというのを言っておきたい。

 

結局相手に自分が前提としてるものが共有されていないせいで話したいことの5割も伝わらないみたいなことがある。一言で伝わると思って言ってもそれが理解されず追加で三言くらい説明しなければいけないとかあったり、この論理展開でそうはならんやろみたいな返答されて訂正したりね。

 

そういう人の相談事って大体自分が一番思っていること、自分が一番話したい事を前提とか予備知識の共有なしにどんどん言ってくるから話の背景をくみ取るのにとんでもなく疲れるってこと。

 

でもこれは少し難しいと感じた問題なんだけど、自分が阿呆な人である可能性もはらんでいて、その場合自分が理解できなくて勝手にストレス感じたり体力使ったりしてしまっていたり、説明力なくて理解しにくいことを言ったりしているので相手方には大変申し訳ない。

 

自分が相手を阿呆と思う側になることも、自分が阿呆になることも考えられるから相手がそうであっても邪険にすべきではないし、自分がそうならないように気をつけないといけないそう思うのである。

 

 

 

 この前先生に自分が書いた文章を見てもらっているときにでた話題なんだけど、如何に現代人が曖昧に言葉を使っているかをわかっていないということで、話を聞けば本当にそうだなと痛感させられた。

 

とても多くのニュアンス・意味を含んだ日本語は多い。古くからの言葉にも阿吽の呼吸とあるように、日本人は察する文化が根付いてしまっていてそれが悪く働いてしまっているのだと昔から思っているんだけどまさにそれに自分がハマってしまっている。

 

自分は「ギガを使う」「ギガが足りない」という表現に関してずっと違和感を感じていたのだけれど、これに関してQuizKnockのナイスガイの須貝さんがツイートしててすごい共感した。

 

ギガは接頭辞であって単位ではない、通信容量というのが正しいのは確かにそうなんだけど通じているのだからそれでいい。違和感を覚えてこだわる人が勝手にこだわっていればいいのだ。

 

少しニュアンスというか話の出発点や流れは違うのだがまぁこんな内容で、しかもこれにリプしてきた人がさらに的を射たことを言っていて、通じるからいいというのはそうとして、本質がこうであるということは知っておきたいというのにも深く共感させられた。(最後に全部リンク載せときます)

 

日常生活で常に正しい、適切な、綺麗な日本語を使う必要はないし伝わればそれでいいのだけれど、本当はこうなんだということを知っておく・使えるようにしておかないと、必要な時にそれを使うことができないし言葉のレベルを調節できないなと思ったのである。

 

それともう一つこれに似たことがあった。

 

先生に見せた文章は外の人に見せる文章で、少し親しみやすい言葉を使おうと心がけていたんだけれど、そこで指摘されたのはunfomalな言葉とbrokenな言葉は違うということだ。

 

確かにこの意味で口語的には通じるんだけどよく見ると意味が壊れてしまっている言葉遣いをしてしまっていて、文章として書き起こしているのだから、やはりそういうbrokenな言葉を使うべきではない、unfomalな言葉と一緒にしてはいけないとこれも思い知らされた。

 

今もこうやって文章を書いている以上そういうことには地味に気を遣っているわけだけれどやってみるとすごい難しいよね。

 

 

 

 さて、読み返してみると結構当たり前だなこれということしか書いてないような気もしますが備忘録なのでこれでいいのだ。